お仕置きファイル



序文 春への書簡 遠い春 校庭に吹く風 闇の重さ 旅立ち 熊野の熱い夏
 

  闇の重さ

「ママー、ごめんなさい! ママー、痛いよー!」
 ピシャッ、ピシャッ。今夜も母の私のお尻への平手打ちが容赦なく続いた。スカートをまくられ、下着を下ろされた小学生の私には、ひたすら耐える以外になす術がない。
「ママー、定規はイヤ」
「つべこべ言わないの。どうしてS子はお行儀よくご飯が食べられないの? 口で言ってもわからない子だから仕方ないわね。ほら、隠さないでちゃんとお尻を出しなさい!」
 バシッ、バシッ。
「痛いよー。もうお行儀よくするよー」
 それは躾というより、虐待と言ってよかった。母が短気なのには理由があった。心臓が悪かった母には炊事も掃除も重労働だった。床にご飯粒を落としただけでもお尻を叩かれる日々。父は出張と残業でほとんどいない。笑顔のない食卓。怯えながら食べる晩ご飯。
 そんな日々に、ある日突然終止符が打たれた。4年生の春、母は発作を起こしてあっけなく急逝した。私は正直、ほっとした。炊事はいつも母を手伝っていたので不自由なくできたし、何より怒られずにご飯が食べられる。一人の食卓は淋しさを感じるよりも、自由なのがありがたかった。

 ちょうど母が亡くなって1週間目の夜、私は母の夢を見た。まだ元気だった頃の母だった。暮れなずむ近所の神社の石段に母は佇んでいる。私が3つの時、母が七五三に連れて行ってくれた記憶がかすかに残る神社だ。
「ママー」
 私は石段を駆け上がった。母は微笑んでその場にしゃがみ込んだ。私が母の胸に飛び込んでいくのを待っていたのだ。
「ママー」
 飛び込んだはずの母の胸はいつの間にか闇に溶けていた。
 目が覚めて、私はベッドから起き上がった。父はまだ帰らない。闇のこちら側に一人ぽつんと取り残されたような気持ちだった。四角い羊羹のような四畳半の闇に、私は呼びかけた。
「ママー」

 父が再婚したのはその2年後のことだった。新しい母はずっと若く、私には姉のような存在だった。私はその母をずっと「お姉ちゃん」と呼んでいた。
 私はすぐに新しい母に懐いた。
 母が私の家に来るようになった頃のことだった。
「S子ちゃんは偉いね。パパのご飯まで作って。今日はお姉ちゃんが作るから、S子ちゃんは遊んでていいのよ」
「はーい。パパ今夜も遅いのかな」
「二人で先に食べよう」
 母が作ってくれたご飯を食べていた時だった。私は誤ってご飯粒を床に落としてしまった。
「ごめんなさい」
 私は青くなって急いで拾おうとした。それを見た母は困惑顔で言った。
「どうしたの? そんなこと気にしなくていいのよ。お腹空いてるんでしょ? 早く好きなだけ食べなさい。ご飯は楽しく食べなきゃ体によくないわ」
 そう言うと、母は床のご飯粒を拾ってくれた。

 私は中学生になった。母は何でも私の言うことを聞いてくれた。
「お母さん、これ買って。お母さん、これも欲しいな」
 母は自分のお給料からいつも私のお小遣いを捻出してくれた。私と母のじゃれ合うような姿に、父は満足そうだった。
 そんな親子関係にひびが入り始めたのは、私が高校生になった頃だった。私は暴走族の友達とつきあうようになった。夜遊びと金遣いが激しくなった。
「S子ちゃん、こんな遅くまで。もうお父さんが帰ってくる時刻だわ。あなた、どんなお友達とつきあってるの?」
「お友達? そんなの母さんには関係ないじゃない。それよりお母さん、今月ピンチ。もう少しお小遣いくれないかな?」
 母は悲しい顔をした。が、夜遊びを控えるという条件で渋々私にお金を渡してくれた。
 私はいつしか、母の財布から黙ってお金を抜き出すまでになっていた。ある日それがばれ、母に咎められた。
「お父さんには黙っててあげるから、もうお願い、こんなことしないで」
「黙っててあげる? 恩着せがましいこと言わないでよ。告げ口でも何でもすればいいじゃん」
 そう言うと、私はまた家を飛び出した。
 その頃から、死んだ母の夢をよく見るようになった。母はいつも淋しげに佇んでいた。ある時は家の庭に、ある時は近所の神社に。
「お母さん」
 ある日、私がそう呼びかけると、母は夜の闇へと消えていった。

 その日の夕方、母は真っ青な顔でやってきた。私がスーパーで万引きをしたのが見つかって、捕まってしまった日のことだ。必死に平謝りする母の姿に、私は卑屈だと感じた。
「お母さん、こんなこと言うのも何なんですが」
「何ですか?」
 言いにくそうにしていた店長が母に言った。
「手慣れているといいますか」
「いえ、本当に、こんなこと初めてなんです」
 母の懇願で私は何とか見逃してもらった。その帰り道、母は一言も口を利かない。まるで何かを心に秘めているみたいに。それが私には少し怖かった。でもその時には、まだ母の決意を知る由もなかった。

「S子、こっちへ来なさい!」
 家に着くと、母は私を居間のソファに座らせた。
「あなたのやったことは犯罪よ。今日はちょっと、痛い目に遭わせるから覚悟しなさい」
「何言ってんだよ」
 母に私を叱れるはずがない、そう私はまだ思い込んでいた。私は咄嗟に逃げ出そうとしたが母に捕まえられ、ソファに俯せにして押し倒された。母は私に覆い被さるようにしながら私の右腕を背中の方にねじり上げた。
「痛ぇ、何すんだよ」
 母にこんな力があったことに驚き、私は一瞬ひるんだ。すると母は私を俯せのまま抱きかかえて自分の膝の上に乗せ、スカートをまくると、私の下着を膝の上のあたりまで下ろしたのだ。それから私の腰のあたりをもう一度深く抱えると自分の体の方に引き寄せた。ピシャッ、ピシャッ。
 母は左手で私の背中を押さえつけながら、右手で私のお尻に平手打ちを始めた。ピシャッ、ピシャッ。私はずっと黙ったまま自分のお尻を母に差し出した。母の怒りはもっともだった。でも素直に謝る気にもなれない。母もただ黙々と私のお尻を打ち続けている。私のお尻を打つ音だけが部屋中に響き、私の耳にも飛び込んでくる。ピシャッ、ピシャッ。
 何十発ひっぱたかれただろう。母のお尻を打つ手が止まった。
「もうわかったよ。もうやんないよ」
 これでお仕置きは終わりだと思った。
 しかし、それはつかの間の小休止に過ぎなかった。母は今度ははいていたスリッパの片方を脱ぐと、それを私のお尻に振り下ろし始めたのだ。ピシャッ。
「痛ぇなあ」
 いったいこのお仕置きがいつまで続くのか、私は不安になってきた。私には抵抗する気力はもう残っていなかった。それだけ母の迫力は凄まじかったのだ。お尻全体が熱く痺れてきた。母は何かに憑かれたように、ますます力を込めて私のお尻を打ち続けた。ピシャッ、ピシャッ。
 そして力を込めすぎたのだろう。次の瞬間、スリッパが母の手から離れて、宙を舞った。スリッパは明後日の方向に飛んで落ちた。それでも母は手を止めようとはしない。ブラウスの右袖をまくると、再び熟れきったりんごのような私のお尻に平手打ちを始めた。
「今日という今日は、許しませんよ」
 ピシャッ、ピシャッ。もう時間の感覚もない。朝からずっとお尻を叩かれ続けていたような気さえする。苦痛という感じではなかった。ただ身を任せていた。それが妙に心地よく、陶酔感のようなものさえ感じた。その時ふと、私のお尻に当たる母の手のひらが、死んだ母の手のひらのように思えてきた。確かに懐かしい感触がした。私は思考力がなくなり、いつしか譫言のようにつぶやいていた。
「ママー、痛いよ−、ママー、ごめんなさい。ママー」
 その時、音がやんだ。私のお尻をひたすら打ち続けていた母の手が、止まったのだ。次の瞬間、熱く腫れ上がった私のお尻に、冷たい滴のようなものが一滴落ちた。私にはまだそれが何だかわからない。一呼吸して、また滴がお尻に落ちた。私は理解した。それが母が落とした涙だったことを。
「お母さん」
 私は俯せの姿勢のまま母に呼びかけた。
「S子ちゃん、ごめんなさいね。こんなにひどくぶつつもりじゃなかったのに」
「ううん、あたし、お母さんに、こんなに本気で叱られるなんて思ってなかったよ」
「お尻、痛かったわよね」
「うん、ちょっとね」
 母は私を抱きしめてくれた。それは夢の中で闇に溶けていくいつものあの不確かな胸じゃない、正真正銘の母の胸がそこにあった。
「お母さん、ありがとう」
 私が言うと、母は一層強く私を抱きしめてくれた。

 母と私は久しぶりに二人で晩ご飯を作り、そして二人で食べた。ご飯を食べながら、私はふと、最近夢の中に死んだ母が出てくる話をした。その夜、私と母は前の母の仏壇に線香を供え、二人で手を合わせた。







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